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米原市散歩

伊吹の恵みを受け、清水に満ちた町

醒井峡谷の養鱒場・居醒の清水や天神水など清水が湧き出る所があちこちにあります。また、代表的な山城の跡の探訪や日本三大奇祭の一つ鍋冠りまつりなど興味の湧く土地柄です。

ギャラリー

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梅花藻  清流に咲く水中花

清流の涼しさとバイカモのすがすがしさが暑い日には最適です。
ぜひ、地蔵川へ足を運んでください。『居醒の清水』からこんこんと湧く伊吹山系からの恵みで安らかな気分を味わうのも良いのではないでしょうか。

【醒井宿一帯:日本遺産認定】

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SLが走る

季節ごとに走る米原〜木之本間のSLはきれいな景色を眺めながらのひと時です。汽笛を聞き、蒸気機関車独特の走りを体験し、楽しんでいただきたいと思います。

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鎌刃城址

こんなところに城があったのかと思うような山の中にあります。近江は交通の要所として、戦国時代は戦場と化してしまい多くの大切なものが失われたところです。この鎌刃城もここにあることでクサビを打ったのかもしれません。

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鍋冠まつり

奇々怪々のおまつりです。現代的には少々考えつらい起源がありますが、今は文化遺産として残していきたい大切な祭りです。

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鎌刃城址
[番場]
【国指定史跡】
鈴鹿山系、霊仙山の東尾根の支尾根の東端にある標高384mの山頂にあった戦国時代の山城で、初城主は鎌倉時代に箕浦庄地頭土肥氏が居城(場所的に軍事目的の可能性大)として築城したとも伝えられる。築城年代の詳細は不明だが、文献上からは応仁の乱の頃(1467年頃)には既に築城されていたといわれています。時の城主は堀氏ですが、国境の境目を警護する城のため、天文年間(1533-1538年頃)には、坂田郡の土豪である今井氏が攻略して家臣の島秀安を城主に置いたことや、北近江と南近江の守護である京極氏と六角氏が争奪するという戦いの場であったといいます。
永禄2年(1559年)には城主堀氏が浅井氏に友好を結ぶようになりますが、元亀元年(1570年)には一族の樋口氏とともに織田信長にくみしたため、信長の前線基地としての役割を担うこととになります。
そういう立場にあったため浅井長政や一向一揆に攻められ、木下藤吉郎の援軍でかろうじて落城を食い止めてきましたが、天正2年(1574年)、堀氏と樋口氏は突然改易され、その後廃城となりました。

太尾山城址
[米原]


築城年代は不明です。しかし、「近江国坂田郡志」には土豪米原氏が築いたとの記録と「妙意物語」に文明3年(1471)に美濃守護代斎藤妙椿と米原山で合戦があったと記されているため、この頃に築城されたものと考えられます。戦国時代は湖南の守護六角氏方の城で、天文21年(1552)には京極高広が城の攻略に為、今井氏に命じますが失敗に終わっています。永禄4年(1561)には浅井長政に攻略され、浅井郡の土豪中嶋宗左衛門を城番にしています。
元亀2年(1571)には織田信長に佐和山城が攻略されると土豪中嶋も太尾山城を捨て、以降廃城となりました。
礒崎神社
[磯2484]

■磯武者行列
御祭神は日本武尊です。創建などは詳細不明のため、由緒略記から見ると、 尊が伊吹山の悪神を退治した時に負傷し、都への帰路悪化したため、磯で崩じられた。この地に御陵を築いて厚く葬ることとし、聖武天皇の勅命により神社を建て、尊のの像を安置して、行基上人により開眼して礒崎大明神と称したという。守護神として祀られたということです。
男女児の扮するあどけない武者と稚児たちに導かれてゆく神輿の行列絵巻が磯地区の春の湖岸を彩る風物詩となっています。
湯谷神社
[米原771]

■米原曳山祭り
・子供歌舞伎



創祀年代は不詳。古来六所権現と言い、明治以降は地名をとって湯谷神社と称したという。
昔、出雲の人が諸国行脚の途中にこの地で温泉を見つけて祠を建てたのが湯谷神社の始まりと言います。
■起源は定かではありませんが、米原の町衆が湊まちと宿場まちとして栄えた経済力と負けん気によって、明和7年(1770)頃より始まったと考えられています。「坂田郡誌」に”明和7年、3輌の曳山を造り、祭日に児童をして狂言を演ぜしむ”と記していると言います。平成4年(1992)には滋賀県選択無形民俗文化財の指定を受けています。
曳山は三基(旭山、寿山、松翁山)あって、シャギリの音を響かせた曳山巡行と浄瑠璃・三味線に合わせて踊る子供歌舞伎が見ものです。



筑摩(ちくま)神社
[朝妻筑摩1987]
■鍋冠まつり
孝安天皇28年に創祀され、継体天皇が越前から上京する際に行宮を設け社殿を建立して神域としたと言われる。しかし、桓武天皇の時代に内裏大膳職の御厨が置かれた地なので、その鎮守として御食津神を祀ったと推定されている。
■彦根から米原に入った辺りの琵琶湖畔にある筑摩(ちくま)神社で毎年5月3日に行われる例祭。行列の最後尾の一群に『8歳の童女が狩衣姿に鍋を被って渡御の列に加わっている』ところから鍋冠(なべかんむり)という名で呼ばれているそうです。昔は童女ではなく氏子の女性が参加し、枕を交わした男の数だけ鍋を被り、もしその数をごまかせば、たちまち体がしびれたり、鍋が割れたりする神罰が下ったといいます。かつて港町として賑わったここ筑摩の、風紀の乱れを防ぎ、女性の貞操観念を徹底させんがためのものといわれ、伊勢物語にも「近江なる 筑摩の祭」と詠まれています。 なお筑摩神社の祭神は、御食津(みけつ)神(食物の神)であることから、鍋は神供を運ぶ物であったとも伝えられています。
宇治(京都府)のあがた祭り、島坂(冨山県)の尻叩き祭りと並ぶ日本三大奇祭の一つと言われます。
平安時代から、四ヶ所の村々によって行われる伝統のあるお祭です。狩衣姿の少女八人が鍋や釜をかぶって行列に加わることから「鍋冠り祭」と呼ばれています。行列には鉾・猿田彦・神楽獅子・列太鼓・母衣・神鏡・青竹・先箱・長刀・金棒・楽人・榊・唐櫃・翳羽・御鳳輦・曳山などなど村々の氏子達がお旅所から約1km離れた神社まで練り歩きます。
鍋冠祭のいわれ(鍋冠祭は米原町の無形民俗文化財に指定されています。)
@祭神はいずれも食物を司る神々です。神前に作物・魚介類などを供えるとともに、近江鍋という土鍋を贖物(お祓いの時に使う道具)としたことが鍋冠祭の起源と考えられています。
A昨今言われているのは諸説がありますが、「女人の不貞を戒める」との説も後世の人々が言い伝えたのではと考えられるていますが詳しくは分かりません。
B古歌に詠まれた鍋冠祭
(壱).伊勢物語(百二十段)
・むかし 男 女のまだ世へずと覚えたるが 
 人の御もとにしのびてもの聞えてのちほどへて  
  よみ人しらず
・近江なる筑摩の祭とくせなむ つれなき人の鍋のかず見む
(弐).後拾遺和歌集(雑四)
・御あがもののなべをもちてはべりけるを
 大ばんどころより人のこひはべりければ
 つかはすとてなべにかきつけはべりける
  藤原顕綱朝臣
 おぼつかなつくまの神のためならば
     いくつかなべのかずはいるべき
(参).鍋冠祭図(富岡鉄斎)の賛
俊頼朝臣の雑和集に曰く 近江の国つくまの明神と申神おわしまし 其神の御ちかいにて 女の男したる数にしたかい 鍋を作りて其祭の日奉るなり 男あましたる人は見くるしがりて少し奉るなどしつれば 物のあしくてやみなどしてあしければ 数の如くして祈れば直りなんと

朝妻神社
[朝妻筑摩1293]

■七夕伝説





■宝篋印塔
昔は牛頭天王社と言われて居たが、明治元年に現社名に改称された。かつては阿妻湊に近く、境内は壕に包まれていた。法性寺の鎮護社として建立された。天文8年新庄直昌が朝妻城を築き尊崇した。永禄3年の戦乱で焼失、翌年新庄直頼により再興された。
■天野川を隔てて恋に落ちた男女の伝説が残っています。対岸世継ぎの蛭子神社と共に縁結び・子宝の神として信仰が続いています。この話がこの地に残る「七夕伝説」になっていったのではないかと思われます。
昔、雄略天皇(第21代)の第四皇子「星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみたおうじ)」と仁賢天皇(第24代)の第二皇女「朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)」は共に仏道の修業をつんでいたがいつしか恋に落ちたという。系譜的には叔父と姪の関係になり少々年齢的には無理があるのですが、後世、奈良の興福寺の仁秀僧正がこの地に伽藍を建てる時に皇子を牽牛・皇女を織女に見立ててともに祀ったそうです。
■境内には2基ありますが、背が低く頭部が欠けている方に「今尚朝妻荘内社廟存在人彦星塚号」と記されており、こちらが星河皇子のお墓となります。女性がこの彦星塚にお参りすると恋が成就すると言われています。ただ、この星河皇子は雄略天皇からは危険人物と思われていたようです。

青岸寺
[米原669]


■青岸寺庭園
【国指定名勝】
青岸寺は延文年間(1356〜1360)に“婆娑羅大名”として知られる近江守護京極道誉(どうよ)のより開かれ、太尾山米泉寺という佐々木氏の祈願寺でした。その後荒廃し、慶安3年(1650)、彦根藩2代藩主井伊直孝の時に曹洞宗のお寺として再興され、吸湖山青岸寺と改められました。
■江戸時代初期に造られた築山林泉式枯山水庭園で、空池を設け、蓬莱島を作り、枯滝を組む姿は、山水画を思わせます。作庭は彦根城の玄宮園、楽々園を築いた香取氏と伝えられています。
蓮華寺
[番場511]
【国・重要文化財】
紙本墨書陸波羅南北過去帳
梵鐘
聖徳太子によって開山したお寺で、(およそ1300年前)聖徳太子が創建し、法隆寺と呼ばれていた。しかし、雷火により焼失した後、弘安7年(1284)にこの地の領主であった土肥三郎元頼(鎌刃城主〉は一向上人(法然上人の法曽孫)を深く帰依し、八葉山蓮華寺と改称して再建した。一時期、時宗一向派の本山と位置づけられたが、1934年に蓮華寺以下57末寺と共に浄土宗となり、浄土宗七大本山に次ぐ格式として特別寺格「本山」とされている。
*南北朝の古戦場:元弘3年5月7日の京都合戦に敗れた六波羅探提北條仲時は(光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴い)東国へ向かうため中山道を下り、馬場の宿場についた時、佐々木道誉に道を塞がれたため、やむなく蓮華寺に玉輩を移し、大いに戦うも敗れて、遂に本堂前庭で仲時以下432名は自刃した。時の住職は深く同情し、その姓名と年齢・法名を一巻の過去帳にするとともに、同寺の境内にお墓を建てて冥福を祈った。その時に地が川のようになって流れたと伝わる(血川として残る)。
*番場の忠太郎地蔵尊:近年、番場出身の博徒番場の忠太郎を主人公とした戯曲「瞼の母」を書かれた、文豪長谷川伸先生が建立された。親子縁結びの地蔵尊としてお参りする人が多い!
*斎藤茂吉さんとの関係は?
:当寺49世佐原窿応和尚の門弟だったことから、参詣して短歌を残している。
”松風の音聞くときは古への聖の如く我は寂しむ”など多くの歌を残しているとか・
■この銅鐘は弘安7年(1284)に畜能、畜生(主)の二法師が諸檀家を廻って勧進し、大壇那道日(土肥元頼)の援助を得て鋳造したものです。銘文には「霊魂妄想の睡りを醒ます鐘」とあります。
松尾寺
[上丹生2007]
【国・重要文化財】
石造九重塔・鰐口
天台宗の寺院で、霊仙山より飛来した「飛行観音」を本尊としています。創建年代は不詳ですが、役行者が修業し、平安の元慶年間(877-885)に松尾童子が復興したと伝わる。
・石造九重塔は文永7年(1270)に建立されたもので、花崗岩製。基壇の格狭間の両側に花瓶にさされた三本の蓮の蕾が各一対供花として彫りだされており、近江三茎蓮の初源として注目されます。
・鰐口は銘文により、もと尾州海西郡三腰極楽寺にあったことがわかります。鋳銅製で表裏八葉蓮弁の撞座が陽鋳されています。尾張鋳物師の作品として注目されています。
真廣寺
[上多良309]
【国・重要文化財】
木造薬師如来坐像
紫寶山真廣寺といい真宗大谷派の寺院です。もとは天台宗でしたが、当寺に伝わる宗祖親鸞聖人の絵図の裏書にある慶長18年4月銘より、当時の住職が教如上人から下附されたと推測され、その時代に真宗大谷派と改宗したと考えられている。
当寺は正元元年(1259)に大田松若丸 釈眞蓮が開基したと伝わる。元亀元年(1270)に信長の兵火に遭い、堂宇は焼失したが仏像等は難を逃れたといいます。ただ、大田家は戦禍によって血筋は耐えたそうで、湖北一帯の多くの戦いにより悲惨な歴史が残っています。
・薬師如来坐像は均整のとれた温和な漆箔像で、定朝様式の藤原仏を感じさせる彫像とのこと、そのどっしりとした体躯は貞観様式を感じさせるものがあり、平安時代末期(12世紀後半)の作と考えられています。
了徳寺
[醒井350]
■オハツキイチョウ
【天然記念物】
浄土真宗本願寺派の寺院で道観上人により文明年間(1469-1487)に開創されたと伝わる。
■オハツキイチョウは葉柄がやや細く、葉の縁に種子をつけるのが特徴。了徳寺のイチョウは毎年多くの銀杏を生じますが、大半は葉面上に生じ、小形で細長く普通の銀杏と著しく形を異にしています。これは花がもと枝の一部であったことを裏書きするものです。(イチョウの木は幹囲約2.5m・高さ約20m・樹齢約200年)


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informationお知らせ

醒井養鱒場
[上丹生]
明治11(1878)年に設立され、「日本の渓流魚の里」と言える、マス類の増養殖に大きな貢献を果たしている施設です。
ここは、醒井峡谷内にあり、霊仙山系からの湧水が流れる川や池にさまざまな大きさのマス類(ニジマス・アマゴ・イワナ・ビワマスなど)が自由に泳いでいるのは圧巻ですよ!他には幻の大魚”イトウ”・古代魚”チョウザメ”・清流の珍魚”ハリヨ”なども飼育展示されています。
大小の飼養池には、百万尾の虹鱒が群泳し、その姿は雄大です。 また、池の周りには、樹木が囲み、春には桜と新緑、秋には紅葉が咲き乱れ、その花々が水面に映え大自然の美しさを見せてくれます。また、場内には、虹鱒料理の店が立ち並び、伝統の虹鱒づくしの料理が堪能できます。
醒井地蔵尊・地蔵堂
[醒井]
“ひでり続きにゃ 尻冷やし 地蔵にかけりゃ 恵の雨が降る”(野口雨情)
弘仁8年、の大干ばつの折、伝教大師が醒井で地蔵菩薩を彫り、降雨祈願したところ3日間も大雨が降ったといいます。1丈2尺の身の丈で花崗岩に彫られています。当初は水中に安置されていた為、尻冷やし地蔵と呼ばれていました。雨情の詩の中に出てきています。尚、魚供養のために祀られたとも言われています。
醒井宿(一帯)

【日本遺産】
中山道61番目の宿場で、醒井の地名の由来となった清冽な湧水は、太古以来枯れることなく流れています。水は生命の源であり、そこに道ができ、往来する人々は醒井の清水で疲れを癒し、旅を続けました。天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では家数は138軒・本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠11軒で539人の人口であり、中山道醒井宿の町並みは、地蔵川の流れとともに今日も息づいています。
醒井峡谷
【国指定名勝】
カルスト地形の発達した霊仙の西北麓、宗谷川を中心とする峡谷で、石灰岩の下を潜って湧出する清冽な渓流が美しい峡谷をつくっています。峡谷は入口は古生層硅岩、奥の方は石灰岩からできています。
木彫の里
[上丹生]
ここは、霊仙山(1094m)の北山麓にあり、周囲を山で囲まれた約150軒ほどの集落となっています。上丹生で彫られているものは、仏壇物といわれる仏壇の狭間や内廻りの彫刻や「だんじり」とよばれる山車の彫刻など伝統工芸を生業としています。
朝妻湊趾
[朝妻筑摩]
湖上交通の大切な地として奈良・平安〜江戸時代に至るまで役割を果たしてきた。歴史上この湊は、秀吉が今日の大仏殿建立の際に、尾張や美濃から木材を運搬し、木曽義仲の後続部隊の出陣時にもこの港を経ているなど活躍した。1612年頃になると北村源十郎が米原港を開くと、松原、長浜港と、その地位は変化していきます。いま、この湊はその様な面影も残っていないですね!
SL北びわこ号
湖北路の米原ー長浜ー木之本間を季節運行する蒸気機関車!昭和10年から14年にかけて作られ、ポニーの愛称で親しまれた「C56形160号機」が牽引します。全席指定席で定員424名、12系客車5両だそうで、運行日程や時刻は変わる場合がありますので、JRのページで調べる必要があります。
地蔵川(梅花藻)
[醒井]
居醒の清水から湧き出る清水の流れの川です。珍しい水中花で白く可憐な梅の花が水面から顔を出して咲き乱れます。キンポウゲ科の淡水植物、5月中旬から8月下旬まで花を咲かせます。バイカモと呼ばれるこの水草は、水温14℃前後の清流にしか育たず、全国でも生育場所が限られています。
米原の湧水
■十王水[醒井]
■西行水[醒井]
■天神水[枝折(しおり)]
伊吹山系の豊富な水が各所から湧き出ます。
■十王水・・中山道沿いの湧水で地蔵川へと流れています。近くに十王堂がありそう呼ばれるようになりました。昔、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)という僧侶が山の岩石下を掘ったところ、清水は湧きだし干ばつ時も水が枯れたことがないと言われる。
■西行水・・平安時代に仲算(ちゅうざん)という僧侶が岩を削り水を出したという伝承や西行と言う僧侶に一目ぼれの娘が、西行が飲み干した茶の泡を飲むと、身ごもり男の子が生まれた。これを聞いた西行は「本当に私の子なら元の泡になれ」と唱えたら、泡になって消えてしまったという話も残っています。
■天神水・・町内を流れる枝折川の源流になっている泉。菅原道真を祀ることから知恵の水とも言われ、池の中の灯篭は「灌田水」と刻まれている。

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informationお知らせ

上丹生の木彫り
工芸品(狸・蛙の焼杉もの)、茶托、盆等
鱒甘露煮
醒井の鱒を使ってつくられる甘露煮
赤かぶの漬物
琵琶湖岸の集落で作られている赤かぶの酢漬け・ぬか漬け等
サイボシ
馬肉を桜の木などでいぶして燻製にしたもので、塩味だけです。


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