本文へスキップ

大津市散歩

大津市散歩:「ロマン一杯の大津」「宝庫の大津」を紹介!

自然と多くの遺産に包まれた古都大津、琵琶湖岸を散歩しながら周囲を眺めると西の方には世界遺産の比叡山・各所にお宝や自然が溢れます。

ギャラリー

イメージ01

石山寺を散策

西国三十三カ所観音霊場第13番札所
石山寺の門前からは琵琶湖から京阪神に向かって流れだす瀬田川を手前に見ることができます。穏やかな流れとボートの訓練に余念のない学生さんの姿が日常の煩わしさを忘れさせてくれます。紫式部も松尾芭蕉もこの地に立って何を思ったのでしょうか?いたる所に「重要文化財」の建築物があります。ゆっくりと拝観されたらいかがでしょうか!

イメージ02

岩間山正法寺(通称 岩間寺)に参る

真言宗 西国33所観音霊場第12番、ぼけ封じ十楽観音霊場4番のお寺です。
★ご詠歌:水上は いづくなるらん 岩間寺 岸打つ波は 松風の音
(みなかみは いづくなるらん いわまでら きしうつなみは まつかぜのおと)
■養老六年(722)越前の生まれである泰澄大師が、時の女帝元正天皇(44代)33歳の厄年に病気になられた際、自らの法力によって治癒された褒美に、勅命により建立したことに始まります。

イメージ03

芭蕉さんが愛した大津・幻住庵

「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山という。・・・」で始まる「幻住庵記」は芭蕉さんのここでの庵住の生活の中から生まれました。「おくの細道」の旅の翌年、元禄3年(1690年)4月6日から7月23日の約4カ月の間、近江の門人膳所藩士である菅沼曲水の勧めによって、曲水の伯父の菅沼定知がかつて暮らした庵に住むこととなったのです。

イメージ04

大津祭りを初めて拝見

私は根っからの近江人ですが、今回初めて大津祭りを見に行きました。京都の山鉾巡業がメジャーですが淡海には各所で山車の祭りがあります。どこの山車もそれぞれ特徴があって見どころ満載ですが、大津祭りはなんといっても「からくり」が見ものでしょう!
大津祭りの始まりは江戸時代初め、鍛冶屋町塩売治兵衛が狸面で踊ったところから始まったといわれています。1638年(寛永15年)から、三輪の曳山を作って元禄、安永年間に今の曳山がそろったといいます。先に書きました「からくり(絡繰り)」は中国の故事や能・狂言から題材を選んだそうで、13基の曳山ごとに特徴があり楽しめます。

























イメージ03

まぼろしの寺(崇福寺跡)

滋賀里駅から東海自然歩道に向けて山中へ
途中、百穴古墳群を右手に見てさらに山中へ向かい案内通りに進むと崇福寺跡に到着します。この山一体に大きな伽藍があったのでしょう。
天智天皇の時代にスリップして当時の様子を想像するのもいいものです。

イメージ04

三井寺

国宝・重文の宝庫に行ってみませんか。広い境内と豊かな文化の雰囲気が心を充分に満たしてくれます。安土桃山の絢爛な時代を想像して境内を散策してください。



























informationお知らせ

園城寺(おんじょうじ)
[円城寺町]
【国宝】
10件:64点
【国・重要文化財】
42件:720点
【日本遺産認定】
天台寺門宗の総本山で三井寺(こちらが一般的)とも言われます。
奈良時代、大友与多王(大友皇子の子)が父大友皇子(弘文天皇)の霊を弔う為に、「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建、天武天皇から「園城」という勅額を賜ったことが始まりと言います。三井寺の由来は天智・天武・持統天皇誕生の際に御産湯に用いられたと言う霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを智証大師円珍が三部潅頂の法儀に用いたためという。
平安時代に円珍が天台別院として再興しました。広大な境内には、安土・桃山時代の風格ある建築物が建ち、仏像や仏画など、多くの国宝、重要文化財を有しています。また、近江八景の「三井の晩鐘」や「弁慶のひきずり鐘」等々で知られるほか、西国三十三ヵ所観音霊場の一つとして多くの巡礼者が訪れます。


光徳寺
[本堅田1-22-20]
真宗大谷派の寺院です。康安元年(1361)に覚忍により開基され、慶長5年(1600)に天台宗から真宗に改宗しています。
*このお寺は「堅田源兵衛の首」のお話が残っています。
それは、真宗中興の祖である蓮如上人が延暦寺による寛正の法難(1465)を受けたとき時、宗祖親鸞聖人の御真影を三井寺に預けて越前に身を隠します。その後、山科に本願寺を建立する際、御真影を返してもらおうとするが、三井寺は「信徒衆の首を二つ持ってくれば返す」という。光徳寺の門徒であった源兵衛は父に自分の首を差し出すように説得、父は我が子の首を打ち、自分の首も打つように寺に申し出る。驚いた寺は速やかに返したという。う〜ん・・・蓮如上人の布教活動の重要拠点であった大津にこのような話が伝わり、殉教心について色々と考えることができます。
本堂には源兵衛の首(髑髏)が安置され供養されている。(尚、源兵衛の首は他に両願寺と当正寺にもあるという)
石山寺
[石山寺1-1-1]
【国宝】
本堂・多宝塔他10件
【国・重要文化財】
東大門・鐘楼・木造如意
輪観音半跏像他39件
【日本遺産認定】

西国33所観音霊場第13番霊場です。
「石山寺縁起」によると、聖武天皇の発願によって、天平19年(747)に良弁(ろうべん)が如意輪観音(胎内に聖徳太子の念持仏が納められている)をこの地に祀ったのが始まりといわれます。石山寺に特に帰依した藤原兼家や藤原道真は家が栄え、各々の娘は天皇となるような子を授かったことから貴族達が石山詣をしたともいわれています。
*広大な境内には寺名由来の天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえて、独特な景観を見せてくれます。又、花の寺としても知られ「梅」「桜」「牡丹」「つつじ・さつき」「あやめ」「アジサイ」「萩」「紅葉」と季節を通して楽しめます。
*石山寺は国宝・重要文化財を多数有し、豊浄殿(宝物館)が春と秋に展示イベントが行われぜひ見学しておく価値は十分にあります。

日吉大社
[坂本5-1-1]
【国宝】
西本宮・東本宮各本殿
【国・重要文化財】
東西本宮各拝殿・楼門
他13件
【日本遺産認定】
■山王祭(さんのうさい)

■日吉大社の大祭。毎年4月12日の『午の神事』から14日の『粟津の御供』の3日間にクライマックスを迎える。この祭は、1300有余年の歴史を持つ大祭。おごそかな静の部分と、宵宮落としなどの動の部分が織りなす祭模様は圧巻。13日19時からの「宵宮落とし」では、4基の大きな神輿が担ぎ手たちによって激しくゆすられ、見物人を圧倒する。この期間、桜が見頃となり、桜と祭りを一緒に鑑賞できる。
■湖国屈指の春の例祭で、およそ1ヵ月半の長期にわたるお祭りです。男宮と女宮のお見合いから始まり若宮の出産、宮入までをストーリーの様に繰り広げられる豪華絢爛な絵巻といえます。スタートは毎年3月の「神輿あげ」と「献灯」でクライマックスが4月12〜15日に行われる『午の神事』(12日夜)、『花渡り式』『宵宮落とし』(13日昼〜夜)『船渡御』(14日夕方)、最後が『酉の神事』が行われて大祭の幕が落とされます。
■七社のお神輿は重要文化財に指定されています。お祭中は特別公開が行われていました。確かに、どっしりとした重量感と共に、神聖な重みも感じられ立派なものです。(東本宮の神輿蔵で拝見)
→JR比叡山坂本駅下車山手へ徒歩10分。日吉大社付近で開催。(毎年の主催者案内をネットなどで確認下さい。)
近江大津宮跡
錦織遺跡
[錦織2‐8]
【国史跡】
奈良・飛鳥から遷都された大津宮跡[近江京/水海大津宮(おうみのおおつのみや)]
天智天皇が飛鳥から遷都した大津宮跡とされています。この辺りには早くから人々が住んでいたことがうかがえ、縄文時代の遺物をはじめ、弥生時代から古墳時代初期の方形周溝墓、古墳時代中期から後期の竪穴住居や溝などが検出されています。大津宮に関する遺構としては、巨大な柱を埋め込むための柱穴をもつ建物跡、柵、門、回廊、宮内を仕切る大垣、倉庫群、石敷溝が見つかっています。また、宮の中心となる内裏正殿の建物も検出されています。大津宮の中枢部とされる部分が明らかになったことで、長い間謎だった幻の大津宮の位置がやっと明らかになりました。昭和58年のことです
大津事件の地
[京町2-2]
大津において、驚愕の事件が発生しました。あろうことか、警護の津田三蔵巡査が琵琶湖見物に訪れ、人力車に乗ってやって来たロシア皇太子に目がけて腰のサーベルを抜き切り付けてしまいました。
建部大社
[神領1-16-1]
【国・重要文化財】
木造女神坐像・石燈籠


◆船幸祭(せんこうさい)
建部大社(たけべたいしゃ) の大祭。大津の夏の風物詩。毎年8月17日に開催される。神話に登場する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の海路遠征に由来する水上の祭で、神輿(みこし) を乗せた船が約20隻の船を従えて瀬田川を往復する。8月1日のさかき立てに始まり、7日の納涼祭、8月15日からの献灯祭、8月16日の宵宮、そして17日に船上渡御を迎える。船団が帰ってくる午後8時には打ち上げ花火が夜空を彩る。船の提灯や岸のかがり火が幻想的。
→JR石山駅下車徒歩20分。建部大社および瀬田の唐橋付近で開催。(毎年の主催者案内をネットなどで確認下さい。)
近江神宮
[神宮町1]
時の神様 天智天皇を祀る
皇紀2600年を記念し、昭和15年(1940年)、大津京にゆかりの深いこの地に建立されました。広大な境内には朱塗の楼門、白木造の外拝殿、祝詞殿、本殿などが建ち並び、眼下に雄大な琵琶湖を眺めることもできます。祭神の天智天皇は大化の改新を行い、日本の政治史上に偉大な業績を残したことで知られています。また、日本で初めて漏刻(水時計)を作らせ、時報制度をつくったことから、時計の始祖としても知られています。このことから、境内には漏刻や古代の水時計の復元模型があるほか、時計博物館も設けられています。携帯用の日時計や各種懐中時計など、展示室には古今東西の珍しい時計が多数展示されています。また、歴史館として、大津京に関連する出土品も展示されています。広い境内には天智天皇の歌碑などがあります。
近江国府跡(近江国庁跡)
[大江・神領など]
【国史跡】
昭和38年(1963)〜40年の発掘調査により近江国庁としての中枢が確認され、平城京の構造手と似ていることや共通機能を持っていたと明らかになった。全国的に国庁の実態が不明であったが近江国庁を参考にいろいろと調査が進められている。尚、遺構は奈良時代中期〜・平安時代初期〜の2時期に分かれており、10世紀末頃まで存在していたと言う。
琵琶湖疏水と
三井寺のライトアップ
[観音寺]
■大津〜京都間の通水と発電のため、明治期に国家プロジェクトとして突貫された琵琶湖疏水。疏水両岸の桜と、借景となる三井寺の1千本の桜が美しく春宵に浮かび上がる、湖都大津の春の風物詩である。市中心部の長等山の麓にある。毎年4月上旬から中旬にかけては桜と寺院がライトアップされる。
→JR大津駅下車徒歩15分もしくはバス4分「三井寺」下車すぐ。→18:00〜21:30(毎年の主催者案内をネットなどで確認下さい。)

■秋の坂本ライトアップ
大津の紅葉の名所日吉大社を中心に、日吉参道、旧竹林院、西教寺と滋賀院門跡の社寺と紅葉がライトアップされる。
11月上旬〜中旬→JR湖西線比叡山坂本駅下車徒歩15分。→17:30〜21:00(毎年の主催者案内をネットなどで確認下さい。)
石坐神社
(いわいじんじゃ)
[西の庄15-16]
祭神は、天命開別命(天智天皇)他、五柱で、お祀りされている天智天皇、弘文天皇等、四体の神像は、重要文化財に指定されています。また、鎌倉時代の見事な建築美を見せている本殿は県指定文化財です。
立木観音
[石山南郷町奥山1231]

◆鹿跳渓谷
 (ししとびけいこく)
立木山安養寺といい厄除の立木観音さんとして親しまれています。
弘仁6年(815)に弘法大師が諸国修業中、瀬田川にこられた時に光り輝く霊木を見ておられた時、白い鹿が現れて大師を背に乗せて瀬田川を跳ねて渡り、霊木の前にお連れして、白鹿は観世音に姿を変えたといいます。ここから、麓の渓谷は「鹿跳(ししとび)」と呼ぶようになったといいます。又、霊木を立木のままに聖観世音菩薩を刻み、小さな祠を建てて安置したと言われています。尚、弘法大使は後、高野山を開基されたので、立木観音は『元高野山』とも呼ばれています。
天孫神社
[大津市京町3-3-36]

◆大津祭
【国重要無形民俗文化財】
奈良時代(西暦782~806年 延暦年間)の創祀。平安時代(西暦806年 大同3年)には近江行幸の平城天皇が当神社を仮の御所として禊祓いをされたという。祭神は彦火々出見命他三神です。

◆10月の例祭で、湖国三大祭の一つでカラクリが特徴。本祭りでは13基の曳山が市内を巡行する。起源は慶長年間(1596~1615年)に鍛治屋町の塩売治兵衛が狸の面をつけて踊ったのが最初という。2016/3/2に国の重要無形民俗文化財に指定された。
*西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)鍛治屋町:1635年創建・・毎年先頭で巡行する。
*猩々山(しょうじょうやま)南保町:1637年創建
*西王母山(せいおうぼざん)丸屋町:1656年創建
*西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)白玉町:1658年創建
*殺生石山(せっしょうせきざん)柳町:1662年創建
*湯立山(ゆたてやま)玉屋町:1663年創建
*郭巨山(かっきょやま)後在家町・下小唐崎町:1693年創建
*孔明祈水山(こうめいきすいざん)中堀町:1694年創建
*石橋山(しゃっきょうざん)湊町:1705年創建
*龍門滝山(りゅうもんたきやま)太間町:1717年創建
*源氏山(げんじやま)中京町:1718年創建
*神功皇后山(じんぐうこうごうやま)猟師町:1749年創建
*月宮殿山(げっきゅうでんざん)上京町:1776年創建
*源氏山(げんじやま)中京町:1718年創建
[町内飾り物]
*神楽山(かぐらやま):堅田町:1637年創建・・1872年の巡行が最後、人形と見送り幕、胴幕が飾られている
*布袋(ほてい)新町:1693創建・・「ねりもの」(作り物による仮装行列の巡行)が17ヵ町あったが、残っている唯一のも

informationお知らせ

大津絵
(大津の代表的な名産)
世俗画が描かれるようになって大津絵の人気はますます広がっていった。そして、18世紀末には、教訓的な道歌を伴ったものになり、「鬼の寒念仏」には、「慈悲もなく情けも無くて念仏をとなふる人のすがたとやせん」という道歌が描かれている。19世紀には、代表的な10種類の画題が描かれるようになり、藤娘は良縁に、鬼の念仏は、子供の夜泣きに効くといった護符に用いられるようになった。
■代表的な画題
■「十三仏」:十三仏は、初七日〜三十三回忌まで、亡くなった人の追善法要の際に掲げられる仏を簡略化し一図にしたもの。
「傘さす女」:画題は古くからあつたもので、着物の柄は時代によって変わる。

■「槍持ち奴」:大名行列の先頭を威勢よく槍を振って歩く姿で、大名の威厳を借りて威張っていることをも意味する。
■「藤娘」:大津絵の美人画の中で一番多く描かれていたもので、あまりの人気に歌舞伎にも取り入れられた。
■「外法の梯子剃り」:外法は七福神の一人で、福徳・財運・長寿の中国の神様で福禄寿のこと。
■「雷の太鼓つり」:太鼓を落とした雷が錨で釣り上げようとしている。怖いはずの雷が太鼓を落として苦心する滑稽な絵。
■「猫とねずみ」:ねずみが大きな盃で酒を飲んでいる絵もあるが、いずれも酒に呑まれて我を忘れることを戒めている。
■「長刀弁慶」:長刀を持って地面に突き立て背中に七つ道具、大きな目で得意そうだが、慈悲心の大切さを教える。
■「提灯と釣鐘」:猿が天秤棒を担ぎ、提灯と釣鐘を下げている。重い釣鐘が 上?重んずるべきものを軽んじるという意味。
■「鬼の寒念仏」:恐い鬼が念仏を唱え布施を乞うて歩く。鬼の姿は慈悲のない心、僧形は形だけの善行で偽善をなす例え
円満院(えんまんいん)
[円城寺町33]
村上天皇の第三皇子・悟円親王によって建立された平安時代後期の古刹。桃山時代の典型的な書院造りの宸殿は、重要文化財に指定されています。宸殿の南側にある庭園は国指定名勝となっています。
延暦寺
[坂本本町]
【国宝】根本中堂
金銅経箱他8件
【国・重要文化財】
根本中堂回廊・瑠璃堂
他41件
【日本遺産認定】
「世界遺産」をゆっくり散策
延歴七年(788)に最澄が開創して以来、空海が開創した高野山と共に仏教の中心として今に至ります。
比叡山の広い範囲にわたって点在する東塔・西塔・横川など三塔十六谷の堂塔の総称です。







*東塔(とうとう)
延暦寺一山の中心となる東塔は、東谷・西谷・南谷・北谷・無動寺谷の五つの谷に分かれています。中心となる根本中堂は、総丹塗りの荘厳な大伽藍で、花鳥の彫刻がほどこされた極彩色の欄間などが見られます。堂内は天台式の仏堂様式がとられており、国宝に指定されています。このほか周囲には多くの堂塔が建っています。
西塔(さいとう)
中心となる釈迦堂(転法輪壁)は、豊臣秀吉が園城寺の金堂を移築したものです(重文)。本尊は釈迦如来像(重文)。法華三昧・常行三昧の修行道場である法華堂・常行堂(重文)も西塔域内の重要な伽藍のひとつで、両堂が廊下で結ばれており、荷物を担うさまに似ているところから、「荷い堂」とも呼ばれています。
*黒谷 青龍寺
天台宗の寺院で、法然上人の修行の地です。(浄土宗総本山知恩院の管理となっている。又行政区分では京都市左京区に位置するが、住所の表示は延暦寺と同じく「滋賀県大津市坂本本町」です。)
開基は天台座主良源(慈恵大師[元三大師])で、法然が18歳の時、青龍寺の叡空の門に入った。

*横川(よかわ)
慈覚大師円仁が根本如法堂を建てたのが起こりとされる横川は、奥比叡の山中にあり、西塔から続く細い山道(峰道)には、セリ合い地蔵や蟻塚など回峰行者の歩く旧跡が残っています。

informationお知らせ

聖衆来迎寺
(しょうじゅらいごうじ)
[比叡辻2-4-17]
【国宝】
絹本著色六道絵
【国・重要文化財】
客殿他17件
最澄の創建とされる天台宗の寺院。平安時代初期に源信が念仏道場として現名に改称したと伝えられています。旧坂本城の門を移した表門と、白壁の塀が巡らされた堂々としたたたずまい。織田信長の寵臣森蘭丸の父・森可成の墓があったため、戦国時代の織田信長による焼討ちから難を逃れました。このため、この寺には比叡山の正倉院といわれるほど国宝、重要文化財が数多く残されています。
弘文天皇陵
(こうぶんてんのう
りょう)
[御陵町]
天智天皇の皇子・大友皇子(648〜672)は、天智天皇没後、皇位継承をめぐって実の叔父・大海人皇子との争い(壬申の乱)に敗れ、最期を遂げました。この時、勝利した大海人皇子は、飛鳥に遷都し、天武天皇となっています。大友皇子は明治時代に39代弘文天皇と追称されました。その後、長等山麓の一古墳が陵墓に選定され、最後の地「山前」の名をとって長等山前陵(ながらやまさきりょう)と命名されました。
唐崎(からさき)
(唐崎神社境内)
[唐崎1-7-1]
唐崎の名は、奈良・平安時代からよく知られ、のち明応九年(1500年)、関白近衛政家が近江八景「唐崎夜雨」と選んだことから広く世に知られるようになりました。「楽さざなみ浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」。『万葉集』にあるこの歌は、柿本人麻呂が近江大津宮をしのんで詠んだものです。日吉大社の末社・唐崎神社境内では近江八景をしのばせる老松を見ることができます。
西教寺(さいきょうじ)
【国・重要文化財】
本堂他19件
[坂本5-13-1]
【日本遺産認定】
天台真盛宗の総本山。聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈・慧聡の為に創建したと伝えられる。その後、荒廃するも慈恵大師良源上人が復興、念仏道場とした。恵心僧都も入寺、修行されたことから次第に栄えた。文明18年(1486)に真盛上人が入寺し堂塔と教法を復興し不断念仏道場とされた。以来全国に400余りの末寺を有する総本山となりました。本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像(重文)などが安置され、伏見城の一部を移築したと伝えられる客殿(重文)の各室内は、狩野派による美しい人物・花鳥襖絵で飾られています。また、趣きが異なる四つの庭園や明智一族の墓など見どころがたくさんあります。

義仲寺(ぎちゅうじ)
義仲、巴御前及び芭蕉が
眠る寺院
[馬場1-5]
室町時代末期、佐々木六角氏が建立。寺の名は、源頼朝軍に追われ、粟津の地で壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬ったことに由来しています。近江の美しい景観を愛していた松尾芭蕉は、この寺の草庵にたびたび滞在していたとされ、生前の遺言によって境内に墓が立てられました。芭蕉の墓は義仲の墓と並んで立っています。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という有名な句は、芭蕉の弟子・又玄がその様子を詠んだもの。
坂本里坊
(さかもとさとぼう)
滋賀院を含め、律院、蓮華院などは、比叡山上の「山坊」に対して麓の町の坊(寺院)を意味する「里坊」と呼ばれています。これらは何れも山上での厳しい修行生活を終えた老僧に与えられた坊舎で、穴太積みの石垣と、山からの渓流や石材を巧みに取り入れた美しい景観を持つ庭園を備えており、「里坊庭園」と呼ばれ、十ヶ所の庭園が名勝に指定されています。
■滋賀院(しがいん):江戸時代末まで天台座主となった皇族代々の居所だったことから滋賀院門跡と呼ばれています。広大な境内には内仏殿、書院、客殿などが建ち並んでいます。見所は狩野派渡辺了慶作の襖絵、近江出身、小堀遠州作の庭園など
■生源寺(しょうげんじ):ここは比叡山を開かれた伝教大師がお生まれになった地で、後にこの寺が建てられた 。伝教大師は767年8月18日に誕生される。伝教大師の「産湯の井戸」、信長の比叡山焼き討ちを知らせるため、古老が力の限り打ちならしたときにひびが入り不思議な音色になったという「生源寺の破鐘(われがね)」などがある。
■実蔵坊(じつぞうぼう):江戸初期に作庭された流水観賞式庭園で優れた造形の滝石組が保存されている。
■旧竹林院(きゅうちくりんいん):邸内には広大な庭園や茶室、四阿(あずまや)がある。(個人所有)


informationお知らせ

崇福寺跡
(すうふくじあと)
[滋賀里町甲]【国史跡】
百穴古墳群の近く、静かな丘陵地に営まれた天智天皇ゆかりの寺院。平安時代の書物『扶桑略記』によると、天智天皇勅願により、大津宮の乾(北西)之方角に建立されたとあります。昭和3年と昭和22年に大津京探求の手がかりとすべく、発掘調査が実施され、その結果この寺院跡が崇福寺と確定されました。発掘調査では、塔跡から濃緑色の瑠璃(るり)製小壷や無文銀銭などがおさめられた舎利容器が出土しています(国宝)。また、金堂跡、塔跡、講堂跡などの建物が発見されました。
衣川廃寺
(きぬがわはいじ)
【国史跡】[衣川2]
県内最古の飛鳥〜白鳳時代にかけての独特の寺院跡。塔跡・金堂跡・瓦窯跡・工房跡と推定される竪穴住居跡が確認された。南門・築地垣もなく、特定の伽藍配置となっていない。大化改新前後に建立、壬申の乱前後の火災で焼失したと推定されている。


南滋賀町廃寺跡
(みなみしがちょう
はいじあと)
[南志賀1;2]【国史跡】

大津宮を探る一環として戦前に二度の発掘調査が行われ、ここが白鳳期創建の壮大な寺院跡だということがわかりました。この調査では、東塔、西塔、金堂、講堂、食堂などの主要伽藍が検出され、また、南・東・西の回廊が見つかったことから、中門の位置も推定され、三面僧房の形をとる飛烏川原寺とよく似た伽藍配置の寺院であることがわかりました。東塔・西塔・金堂は、基底部に割石を並べ、その上に瓦を積み上げた美しい瓦積基壇の上に建っていました。出土瓦などから、この寺院跡は平安時代末期まで存続したようです。この寺院跡からは通称サソリ文瓦と呼ばれる特殊な蓮華文方形軒瓦や平安時代の瓦が多く出土しています。
茶臼山古墳
(ちゃうすやまこふん)
[秋葉台35]【国史跡】
音羽山系から東方に延びる丘陵に造られた古墳で墳丘上からは琵琶湖が一望。四世紀後半に築かれた全長約122メートルの前方後円墳で、滋賀県では安土瓢箪山古墳に次ぐ第二の大きさ。

穴太廃寺跡
[穴太2]
【国史跡】
道路(西大津バイパス)の建設に伴う発掘により、同じ場所に方位を変えて建て替えられた寺院機構が確認された。現在は高架道路の下や周辺に保存されている事もあって、残念ながら見栄えはよいとは言えない。遺構は創建当初の伽藍が西に金堂・東に塔・北に基壇と思われる跡・金堂の西には回廊となっていて、再建伽藍は法起寺方式となっている。
創建年代が7世紀前半の瓦葺き仏教施設が建てられ、7世紀後半に何らかの事情で新たな寺院が同じ場所に建てられ、平安時代まで存続したと考えられている。
周囲の古墳群などとの深いつながりを持っていると思われる。
穴太野添古墳群
(あのうのぞえこふんぐん)
[坂本1]
四ツ谷川上流の丘陵に分布する野添古墳群は、南北約130メートル、東西約1,000メートルに及ぶ広大な範囲に広がり、総数180基以上が存在する大規模な古墳群です。六世紀後半から七世紀前半の、ミニチュアカマドセットなどが出土しており、朝鮮からの渡来人が葬られたと考えられています。
皇子山古墳
(おうじやまこふん)
琵琶湖を一望できる
史跡公園
[錦織1]【国史跡】
標高165メートルの小高い山の頂上にある古墳。造られた年代は、出土土器から4世紀前半のものと考えられ、県下で最も古い時期のものの一つとされています。全長60メートル、後方部幅35メートルの規模をもつ前方後方墳。地山を削り出して構築されたこの古墳は、眺望を意識してか琵琶湖側が特に丁寧に造られ、葺石が葺かれています。後方部墳頂には埋葬主体部と思われる、南北約10メートル、東西約7メートルの墓壙が確認されています、、さらに前方部からは粘土榔のある墓壙も見つかっています。また、この古墳の近くには、直径約20メートルの円墳(2号墳)が造られています。
百穴古墳群
(ひゃっけつこふんぐん)
[滋賀里町甲]【国史跡】
の谷口部の北側、南北150メートル、東西250メートルの範囲に広がる古墳群で、現在60数基が確認されていますが、埋没したものなどを加えると100基以上になると推定されます。いずれも横穴式石室を内部主体とした小円墳で、直径は10メートル前後。石室の構造や出土品から、朝鮮からの渡来人が葬られたと考えられます。
穴太衆積み
(あのうしゅうづみ)
『穴太』は大津市坂本穴太に残る地名。古墳築造などをしていた石工の末裔とも言われている。室町時代の末頃、この地に居住し、延暦寺などの寺院の石工を任され高い技術力が認められていた。この石工の技術者達を「穴太衆」と呼び、石積みを「穴太積み」と呼ぶ。織田信長の安土城を始め、国宝彦根城・竹田城や篠山城などが穴太積みとされている。延暦寺の門前町坂本は、里坊が多く点在しているが、その町並みを特色付けているのが、この穴太衆積み石垣である。
浮御堂(うきみどう)
[堅田1-16-18]
近江八景の「堅田の落雁」で知られる。寺名を「海門山満月寺」という。平安時代に“恵心僧都(源信;942-1017)”が比叡山横川から琵琶湖を眺めていると、毎夜、光明の射すところを怪しみ網ですくうと一寸八分の黄金の阿弥陀仏像が姿を現した。その為、魚類殺生供養のため阿弥陀仏像一体を造ってこの黄金像を体内におさめて奉り、同時に1000体の阿弥陀仏像も奉って浮見堂を創建したと言われている。
オランダ堰堤
(おらんだえんてい)
[上田上桐生町]
オランダの土木技術者”ヨハネス・デ・レーケ”氏が明治6年(1873)に内務省土木局招かれて、欧米の最新水工技術を国内に普及させた。日本では寺社の造営に多くの木々を伐採し、山々が破壊されていき、土砂の流出が洪水の一因となって大きな被害を発生させた。デ・レーケは明治10年にハゲ山と化した田上山で治水事業に関わり、明治22年には日本技術者「田邊義三郎」の設計指導を行い大津市上田上桐生町の砂防堰堤を成功させた。100年以上経っても健在で、デ・レーケの功績をたたえ、母国にちなんで『オランダ堰堤』と呼ばれている。
堅田湖族(かたたこぞく)
[堅田1-21-27]
◆湖族の郷資料館
当時の堅田は琵琶湖の西、琵琶湖大橋を渡った真野、仰木から現在の堅田全域で、水運が主体の時代では湖上交通が盛んで琵琶湖の喉のような要衝の地として栄え、琵琶湖沿岸で最大の自治都市となった。飛鳥、平安の時代は漁師達が下鴨社の支配下に入り、続いて延暦寺の荘園が成立するに至る。1221年の承久の乱後佐々木信綱が地頭になるも、延暦寺・下鴨社ともに対抗するため、延暦寺は堅田に湖上関を設置して他船を排斥、下鴨社は漁民や船主に漁業権・航行権を保証する。が、以降佐々木氏とその漁業権・航行権を巡って争いが続く!中世からは地侍の組織(殿原衆)と商工者・農民からなる『堅田衆』による自治が行われることとなる。これらの人々を『堅田湖族』とも呼ばれた。特に、殿原衆は堅田の水上交通を支配し主導権を握っていった。
逢坂の関
(おうさかのせき)
[大谷町1号線沿]
近江国〜山城国間の国境となっていた関所。東海道と東山道(中山道)を通る人々の交通の要となる大切な関所。平安中期(810)以降は不破関、鈴鹿関と逢坂関を三関という。名物は明和元年(1764)頃に売り始められた『走り井餅』があります。
「逢坂関」は歌枕として百人一首にも出てきます。●これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関(蝉丸)●夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ(清少納言)
小関越(こぜきごえ)
[京町1~]
大津〜京都(山科)を結ぶ古道。京と結ぶ一般的な道は逢坂の関(東海道:大関と呼ばれた)を通過して山科に入る道ですが、琵琶湖の西側を通る街道(旧北陸道、北国海道、鯖街道)とも結ぶ小関越え(逢坂の大関に対し小関という)があります。三井寺に行く道として大いに利用されたそうです。芭蕉の句「山路来て何やらゆかしすみれ草」はこの小関越え途中に見たスミレ( タチツボスミレとの説が有力)を詠んだものと言われています。
関蝉丸神社
(せきせみまるじんじゃ)
[逢坂1-15-6]
【国・重要文化財】
下社-時雨燈籠
上社(旧関大名神関丸宮;猿田彦命)と下社(旧関清水大名神関丸宮;豊玉姫命)からなり分社とされる蝉丸神の三社を併せて『蝉丸神社』とする場合もある。平安時代中期の琵琶法師(歌人)が逢坂山に住み、没後には上下社共に祀られるようになった。
瀬田の唐橋
(せたのからはし)
[唐橋町-瀬田1]
大津市瀬田の瀬田川に架かる橋。近江大津宮遷都の時に架橋されたと思われる。当時は現在より南65m下ったところという。当初は瀬田川の両側にあった大木を利用したつり橋であったと言われています。壬申の乱(671)では大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場になった。又、地の有名な話として藤原藤太秀郷の大ムカデ退治伝説が残る。何れにしても当時は東から京へ向かう道は瀬田川を渡るか琵琶湖を渡るしかなく、京都防衛上の拠点となる重要な橋であった。古くより、『唐橋を制する者は天下を制す』と言われた。「急がば回れ」のことわざの発祥と言われる『武士(もののふ)の矢橋の船は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋』。松尾芭蕉も『五月雨に隠れぬものや瀬田の橋』と詠っている。
南郷洗堰
(なんごうあらいぜき)
◆南郷水産センター
[黒津4-1-1]
◆水のめぐみ館アクア琵琶
[黒崎4-2-2]
瀬田川の洗堰、明治に作られた旧洗堰を南郷洗堰と呼ぶ。琵琶湖から流れ出る唯一の天然河川である瀬田川の水を堰止め、利水・治水のために運用されている。尚、今でも洗堰の運用において全閉操作に対する大きな課題が曖昧なまま残っている。
◆老舗のテーマパーク・釣り場などで楽しむ

◆琵琶湖の治水・利水の紹介など

比叡山(ひえいざん)
滋賀と京都にまたがる848.3mの山(大比叡;大津)と838m(四明岳しめいがたけ;京都)の二峰からなる双耳峰の総称。大比叡の一等三角点は大津に所在する。古くから信仰対象の山で、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。
びわ湖の蜃気楼
(びわこのしんきろう)
琵琶湖でも蜃気楼(大気中で光が屈折して起こる現象)が見えるとのことですが、まだ見た経験がありません。調べてみると 『琵琶湖の蜃気楼情報』というホームページで詳しく紹介されています。蜃気楼は3パターン(珍しい上位蜃気楼・どこでも見られる下位蜃気楼・非常に珍しい側方蜃気楼)あるのだそうです。
瀬田丘陵生産遺跡群
[大津市一里山・草津市野路町・瀬田大萱町]【国史跡】
古代の製鉄や製陶に関わる遺跡群で琵琶湖東南部〜草津に広がる瀬田丘陵及びその周辺地域にあります。草津市の野路小野山製鉄遺跡+4基の須恵器窯と工房に灰原が発掘された山ノ神遺跡+4基の製錬炉が発掘された源内峠遺跡をいう。この源内峠遺跡は出土した土器から大津京時代の中心的な遺跡だったという。これらの背景には663年の白村江の戦いに敗れたこと、百済が滅び、唐や新羅からの脅威にさらされることになった事から都を大津に遷都するとともに、国の防衛強化を強めるために根幹の製鉄能力アップが必須になった。

お願い
本ホームページ情報で不都合と判断されたところはご連絡をお願いします。削除或いは訂正をさせて頂きます。又,本ホームページ全ての情報は皆様ご自身の責任下でご判断/ご使用ください。当管理者は一切の責任を負いません。