近江湖南の地・ひとびとと共に [4]
湖水を望みて春を惜しむ (猿蓑)
行く春を近江の人と惜しみける


志賀辛崎に舟をうかべて ひとびとはるをおしみけるに (真蹟懐紙)
行春やあふみの人とおしミける

志賀辛崎に舟をうかべて ひとびと春の名残をいひけるに (真蹟懐紙)
行春やあふみの人とおしミける

四季折々の名残 処々に至る (真蹟懐紙)
行春やあふみの人とおしミける

四季折々の名残所々にわたりて いま湖水のほとりに至る (真蹟懐紙)
行春やあふみの人とおしミける
背景:唐崎神社境内から琵琶湖を望む
■『去来抄(きょらいしょう)より』
この句に関する“芭蕉”と“去来”の会話が記されている。
この記された内容が行く春を・・の本質を見事に表しているとされます。

「先師曰く、『尚白が難に、近江は丹波にも、行く春は行く歳にも振るべし、といえり。汝いかが聞き侍るや。』
去来曰く、『尚白が難あたらず。湖水朦朧として、春を惜しむに便り有るべし。殊に今日の上に侍する。』と申す。
先師曰く、『しかり。古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都におとらざるものを。』
去来曰く、『此の一言心に徹す。行く歳近江にゐ給はば、いかでか此の感ましまさん。行く春丹波にいまさば、本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかな。』と申す。
先師曰く、『汝は去来、共に風雅をかたるべきものなり。』と殊更に悦び給ひけり。』

“芭蕉”は“去来”に『(大津の門人)“尚白(しょうはく)”が「近江の人」は「丹波の人」でも、「行く春」は「行く歳」でもよいのではないかと言われた』・・と語る。
“去来”は『尚白が難あたらず。湖水朦朧として春を惜しむに便り有るべし』と句の意義付けをする。【近江の人だから、湖面の朦朧として春を惜しむに便り有る感じが呼び起こされるという】
“芭蕉”は『しかり。古人も此国に春を愛する事おさおさ(まったく)都に劣らざるものを』と応じる。【この芭蕉の言葉で、この句が「古人」のこころ、古歌の伝統を心に置き発想されている事が伺えるという】
ふたたび、“去来”が『此の一言心に徹す。行く歳近江にい給はば、いかでか此の感ましまさん。行く春丹波にいまさば本より此の情うかぶまじ。』と・・
”芭蕉”は『あなたは共に風雅を語ることができる人だ。」と大いに喜
ばれた
■この句の初案は? 元禄三年三月の作という“真蹟懐紙”が初案とされる。
尚、前記の真蹟懐紙は4種あり、前書きが各々異なっている。
■この句の近江の人とは? 真蹟懐紙の前書によると、一日、舟行を共にした門弟・知友を指すという。
決定稿の猿蓑では、広く近江の人々を指しているという。
■“尚白”という人?
蕉門下の最古老ではあるが芭蕉に合わず後に、親友の千那とともに離脱する。
江左尚白(こうさしょうはく)【1650〜1722年】
近江大津の町医師。姓は江左(えさ)氏。字は三益。木翁、芳斎とも号した。

友人“
三上千那”と共に、貞享2年(1685年)芭蕉の門に入る。蕉門の最古参で中心的に活動し、乙洲(おとくに)、正秀酒堂、許六らを蕉門に引き入れている。

尚白、千那は京都談林の菅野谷高政(かんのやたかまさ)に入門しており、尚白はさらに安原貞室(ていしつ)・原不卜(ふぼく)にも俳諧を習ったという。
尚白最初の編集になる「孤松(ひとつまつ)」は好評であったが、次の「忘梅(わすれうめ)」は不評であったという。このような状況や芭蕉の「
かるみ」にも同調できないなど、湖南の蕉門との確執が深くなり芭蕉とも対立するなど蕉門から離脱している。


大津札の辻の妙光山本長寺に墓がある。
去来”という人?
芭蕉より絶大な信頼を得て、猿蓑の編纂に力を尽くす。
向井去来(むかいきょらい)【1651〜1704年】
肥前国(長崎市興善町)に儒医向井元升の二男として誕生。少年期に父に伴い京都へ移住。一時、叔父のもとで武芸を学ぶが、青年期に武士を捨てて京都で浪人暮らしとなり、嵯峨野の
落柿舎(らくししゃ)に住む。
1684年頃から芭蕉との文通により教えを受ける。1686年には江戸にて芭蕉と対面する。芭蕉が関西へ戻った時は落柿舎を提供するなど、芭蕉に心から尽くしたという。
この頃、「俳諧の古今集」とも呼ばれる『猿蓑』を野沢凡兆と共に従事し、俳諧の真髄を学ぶチャンスを得た。
去来の著『去来抄』は蕉風理解への重要な書であり、芭蕉とのやり取り、体験談などの内容が多いという。
芭蕉もこの去来に対して絶大な信頼をもち、彼を称して「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」と呼んだという。
人間的なところでは、若いころより女性に溺れるところがあった。去来は結婚はせず、一生内縁の女性(京の遊女)「可南」と共に暮らしたといいます。

去来の墓は京都嵯峨野の落柿舎裏にひっそりと、こじんまりとのこっている。
落柿舎って? 去来の別荘として使用されていた草庵で、芭蕉はここで「嵯峨日記」を執筆した。
去来の「落柿舎記」には、庭に柿の木が40本あり、この柿の実を売る契約をしたが、その年の台風で柿が落ちてしまった。これが由来と書かれているそうです。

【今年の台風といえば2011年9月3日は台風12号が四国〜中国を縦断、滋賀も強い風が吹き、時折激しい雨となってた。関東地方にも大きな影響を与えており、日本を覆いつくす大型台風だった。特に和歌山などは大きな被害を出し、生活が一変した人たちも多数出た。】
■“千那”という人?
芭蕉のかるみに同調することができなかった門下生の一人
三上千那(みかみせんな)【1651〜1723年】
大津堅田の人で本福寺の11世住職。
俳諧は尚白に学ぶ。1685年に蕉門に入り、以降尚白などと共に蕉門の中心人物として『猿蓑』などで活躍した。しかし、尚白と同じく芭蕉晩年の「かるみ」が理解できず、芭蕉との感情的な隔たりが生じてしまう。千那の作品も質の低下が否めなかったという。
■“正秀”という人?
芭蕉とは家族ぐるみの付き合いがあった。
水田正秀(みずたまさひで)【1657〜1723年】
近江膳所の人で伊勢屋の主人(又は藩士)で、後には医業についた。俗称は孫右衛門。竹青堂の別号がある。最初は尚白に学び、勧めもあって蕉門に入る。義仲寺の草庵は正秀などの拠金で作られており、芭蕉の生活に対する実質的なサポーターであったという。
芭蕉は正秀にいくつかの書簡を送っているが、正秀の家族に対する健康や成長に心を通じており、家族ぐるみの付き合いがあったようです。
67歳で死去した。
■“酒堂(しゃどう)”という人?
近江芭蕉の重鎮。
浜田珍夕(はまだちんせき)【〜1737年】 (浜田珍碩ともいう)
近江膳所の人で医者。珍夕の草庵、酒落堂(しゃらくどう)から“酒堂”とも言い、後年この号をよく用いたそうだ・・
菅沼曲水と並んで近江蕉門の重鎮でもある。努力の人という、俳諧修行の悩みを相談するために江戸に芭蕉を訪ねてもいる。後、大坂で俳諧師となり、勢力争いで対立した大坂の蕉門である之道(しどう)と確執を起こす。その頃、疲労困憊の芭蕉は仲裁の為に大坂に赴くなど相当苦労をした。芭蕉はこの大坂の地で帰らぬ人となってしまう。
70歳〜80歳で死去
■「かるみ」って? 難解・・よく解らない!
晩年、芭蕉の唱えた俳句理論「かるみ」とは一体何?
★許六に「かるみ」と「おもしろみ」との比較をした一文がある(俳諧問答・俳諧自讃之論)・・・・・
「惣別おもき・かるきといふ事、趣向又は詞(ことば)つづき容易なるを、かるきと覚えて侍りて、上をぬぐひたるやうなる句、このごろいくばくか侍る。それはうつけたるといふものにて、かるきといふ物にはなし。
面白、俗のよろこぶ所のしみつきたるごとき事を、おもきとはいふ也かるきと云うは言葉にも筆にものべがたき所にえもいはれぬ面白き所あるを、かるしとはいふ也。かるきとて、おもしろみのなき事は、うつけたるといふ物也。この事翁にたづねて、よく究め置き侍るなり。」
★私は、当然のことでしょうが、これを読んでもよく解らない・・
曲水”という人?
芭蕉が最も信頼した人。
菅沼定常(さだつね)が本名【〜1717年】
始め、曲水と名乗ったが1693年に『深川』を刊行し、曲翠と名乗る。
膳所藩士。蕉門のなかでも芭蕉とは最も親交が深く、家族ぐるみの付き合いをした。曲水の息子竹助の成長を気にかけていた。
芭蕉に「
幻住庵」を紹介した人。唯一、芭蕉が借金を頼んだ相手という。
芭蕉没後の1717年に膳所藩政を牛耳っていた悪家老蘇我権太夫を刺し、その責任をとって自決した。妻は節子、夫の自決後は髪をおろして“破鏡尼(はきょうに)”と称し、岸和田の実家で菩提を守る。

正義の勇敢なお人でした!
幻住庵って?

開館時間:9:30〜16:30
入館料:無料
大津市国分2丁目
「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国文山といふ。・・」で始まる「幻住庵記」は松尾芭蕉のここでの庵住の生活の中から生まれた。奥の細道の旅の翌年の、元禄三年(1690年)4月6日〜7月23日までの約4ヵ月間、菅沼曲水の勧めによって、曲水の伯父の菅沼定知(幻住老人)が、かつて住んでいた庵に草鞋を脱ぐ。
ここで書かれた「幻住庵記」には芭蕉の俳諧道への心境などが述べられている。「おくの細道」と並ぶ俳文の傑作!
結びにある「先ず頼む椎の木も有り夏木立」に詠まれた往時を偲ぶ、椎の木が今も残っている。

こんなところ→幻住庵を紹介しましょう!
その他の近江の蕉門達
川井乙洲(かわいおとくに) 川井又七。大津蕉門の重鎮。大津藩伝馬役。「かるみ」をよく理解した人という。
直江木導(なおえもくどう) 上松光任。彦根藩士。
河野李由(こうのりゆう) 彦根平田「明照寺」の住職
貞春 浜田珍夕(酒堂)の母
智月尼 川井乙洲の母で芭蕉が大津滞在中に世話をした人。夫と死別後に尼となった。
荘右衛門 粟津の農民で(芭蕉や去来・乙洲も訪れた)竜が丘にあった山荘「山姿亭」の主
森川許六(もりかわきょろく) 彦根藩士。蕉門十哲の中でも筆頭に上げられる人で、河野派の絵画や漢詩にも通じ、芭蕉の絵の先生。
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